liliの雑記帳

月份牌广告に魅せられて上海留学をしている大学生の雑記帳です。主に表象文化論について。

【中国留学】オンライン期末試験を受けてみた

6月末をもって、2学期にわたる中国留学が終了した。
後期は帰国しオンラインにて授業を受けており

中間/期末 試験も、
もちろんオンラインだった。

TOEFLなどでも導入され、何かと話題なオンライン試験。
日本の大学もそろそろ期末にさしかかる今、
この未曾有の事態に、先例として少しでもフムフムと思ってもらえたら幸いである。

試験科目(語学試験の場合)

私は語学を中心に学んでいたので、その試験について。

以前も書いたが、オンライン化により科目数が減り(学費も減額)、
言わずもがな試験や単位も減った。


前学期のオフライン試験は、

  📖 精读 (文法・読解)
  👀 泛读 (速読)
  👂 听力 (リスニング)
  ✍️ 写作 (ライティング)
  🗣口语 (スピーキング)
              
        ( & その他選択科目)

に分けられて行われたが、


今学期のオンライン試験は、

  📖 精读( &  👀泛读)  
  👂 听力        
  🗣口语                      

の3つとなった。

また、同じ科目でも中間と期末は別の先生が担当していて、
その試験もそれぞれ個性があった。


試験方式

 📖精读  &  👀泛读  (文法&速読)


超星
というアプリを使い事前に通知欄に届いた試験を開ける。もちろん、管理者である担当教員により、試験開始時間まではアクセスできない仕様に設定されている。


ちなみに、この通知欄を通して模擬問題も配られた。
通信に問題がないか、どのように回答するのか、といったことが事前に確認できるのは、とても重要なことだ。

設問について言えば、
PDF配布されていた教材に沿った内容も出たが、まるっきり同じというのはほとんどなく、初見の文章が多く出題された。


基本的には4択、選択肢なしの穴埋めなどで、作文は出ず。
自動採点できる形式のものがほとんどで、実際、試験後すぐに採点が終わったと伝えられた。
これは、オンラインならではの利点ではあるかもしれない。

 

👂听力  (リスニング)


授業ではいつもZOOMを使っており、そのルームを開いたまま、超星アプリ上で模擬試験を受けた。

そのため、模擬試験中に問題が発生すれば、ZOOMのマイクをONにして先生に伝えた。
模擬試験の音声が途絶えたとき(回答を記入しているとき)のみ、他の学生のZOOM音声が聞こえるため、特に設問が聞き取りにくくなることはなかった。


本試験中はZOOMは用いず、通信上など何か問題があれば、直接 担当教員に連絡をした。

設問の音声は、アプリの仕様上(?)、複数回再生できた。

 

期末試験は、
パソコンの声を聞き、パソコンに声を聞かせるという方式だったが、
中間試験は、
担当教員と1vs1直接電話をした。
👂听力と🗣口语 の合体である。


実際の会話なので実力がはかりやすく、
少人数クラスならこれもアリかもしれないが、
学生は1回でも先生は何人とも話すので相当ヘトヘトになられるだろうし、
数値的評価基準が曖昧になりがちというデメリットもありそうだ。

 

🗣口语(スピーキング)

これまた超星というアプリを使って行う。


もともと解答欄に音声を入力できる仕様になっているため、 🗣口语 ではそれが利用された。といっても、音声が文字起こしされるのではなく、解答欄のマイクのマークをクリックし、録音するだけだが。


試験2回前の授業内で、マイクが使えるか確認し、
試験直前の授業内で、模擬試験を一斉に行った。

試験内容としては、50分間で、5つの設問に対して、それぞれ4分間以上口頭で回答するというもの。また、いくつかの指定の語句を使う必要がある。


うち3問は、授業内で扱った話題に関する発展的な問い、
うち2問は、大問1つにつき3つの選択肢の中から任意の1つに答える問い
であった。

これは個人的な問題だが、私は母語でも会話はドギマギしてしまうタチなので、いきなりアドリブで答えろと言われても困っちゃうのである。これは対面かパソコンかとかそういう問題ではない。まあ試験なので困っちゃうとか言っている場合ではないのだが。


ちなみに、中国で対面授業を受けていた前学期も、🗣口语 の試験はパソコンに向かって録音をするという形式だった。
(大学の試験会場教室内にあるパソコンに向かって録音)

在宅オンライン試験だとまわりの雑音が聞こえないので集中しやすく、個人的にはむしろ良かった。


 

トラブル&注意点、  改善方案

▼試験時間は残り何分か?

私が受けた試験フォームは、設定時間が終わると自動的に閉鎖・提出される仕組みだった。しかし、試験時間は90分間だったにも関わらず、フォーム閲覧可能時間が120分に設定されていたため、開始90分を過ぎても閉鎖されなかったようだ。
(おそらく前後の通信トラブルに備えて)


制限時間は表示されるものの、うっかり90分間過ぎたあとに提出してしまった学生がいた。そのあとで先生がグループチャットで「90分過ぎてから提出した人は0点ね!」なんて追い打ちをかけるもんだから、その学生はもう苦笑するしかない。現地風に言えば 我太难啦... という感じである。


▼回答は提出できているか?


これは私自身の話だが、🗣口语 の試験で、「録音のアップロードが完了」と表示されたにも関わらず、録音の記録が残っていなかった。

再度録音するも、またもや正常にアップロードされず。
これはマズイ。通信の問題か? 模擬試験の時は正常にできていたのに。
焦って焦って汗をダラダラかきながら、担当教員に連絡する。

しかし先生も「とりあえず先に次の問題やってて」としか言いようがない。
試験終了後に確認してもらったところ、一つも正常にアップロードできていなかった(泣)

まずい、貴重な単位が…チャララ〜ン↓という感じで青ざめたが、その直後、スマホで録音して直接教員に送るように指示され、なんとか不戦敗は免れた。

 

これをご覧になっている、

みんな、
Wi-Fiや通信状況はよくよく確認しよう。普段問題なくても。

先生方、
当日、異常が発生するかもしれないので、すばやく通じる連絡手段は必須です。普段問題なくても。



不正防止について

私の試験は持ち込み不可だったのだが、不正防止策は特にとられていなかった。カメラもオフだった。

強いて言えば、試験のはじめに「不正行為はしない」と署名したくらいだ。
完全に性善説である。


設問は、選択肢のない穴埋め問題や、初見の話題でアドリブ口述する問題など、不正しようにもできないだろうものばかりだった。教員との電話による🗣口语 の試験は、その最たるものだろう。自分の意見を述べるものは、オンライン試験に適している。
在宅オンライン試験では、設問の工夫が命と言えそうだ。


ちなみに、人曰くカメラをONにして受ける試験もあったと聞く。
カメラによって、実際にどこまで行為を監視できるかは断言できないが、パノプティコンとしては機能するかもしれない。

 

オンライン試験は、やはりどうしたってあくまで性善説に則る必要があり、(監視システムを利用している場合もあるが)
試験よりレポートの方が無難というのも理解できる。


しかしオンラインにはオンラインのメリットがあることも知ってしまった以上、ウィズ・コロナ 改め ウィズ・オンライン講義 時代の到来は免れない。オンライン試験の拡大も考慮し、対応してゆくべきだろう。


余談(オンライン卒業式)

このオンライン期末試験を以て私の留学は終了したわけだが、なんだか あまりにあっけなく幕を閉じてしまった。
終わった実感が湧かない。これは名残惜しさの常套句ではなく、本当に実感がないのだ。なんなら うっかり、また いそいそと授業準備をしてしまう。なぜだろう。そうだ、修了式がないからだ。
(本来ならば現地で行われるはずだった)


一方、現地の学生向けには、オンライン卒業式が行われたそうだ。しかし今夏卒業の友人は、危うく忘れかけたらしい。式典のメモリアルという要素が、式場というハコがなくなることによって、薄らいでしまっている。式典の本質を成すものは何かということがわかる一例のように感じた。

 

***

 

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WANT ToDo リストをつくる話

未練を希望に変えるライフハック


かれこれ引きこもり生活も半年近くになってきた。

昨年から中国に留学していた私は、一足先に疫情の影響を受けていたので、
1月から引きこもっている。
2月には留学途中だったが帰国して、現在に至る。


上海では一人暮らしで、唯一の外界とのつながりはスマホのみ、
日本では念のため2週間隔離をしたものの、
その後日本でも「自粛要請」モードに突入したので、
けっきょく今年はほとんど外に出ていない。


旅行中止。突然の帰国。上海に未練タラタラ。
しかも日本に戻ってもどっちにしろご隠居生活である。


仕方がないので、私はタラタラ未練をメモしておくことにした。
その名も ”WANT ToDo リスト" 。
わたしの項目は以下4つ。

画像2


まあ、ただ
行きたい 読みたい たい 食べたい 知りたい ...
という、「〜たい」シリーズをメモしておくだけなのだが、
これが意外と悪くない。
「世の中にはまだこんなにやりたいことがある…!!」と思うことで、
楽しみを増やそうというわけだ。


今は本や映画に浸る絶好のチャンスだ。
こんなに時間のある日々は、たぶん老後までこないだろう。
「行きたい」は、世の中が収まるまで もうしばらく おあずけだが、
「読みたい」「観たい」は、少しずつ消化していて、
完了したらチェックをつけている。

画像2

さくらももこ『夏の色もみえない』
ちびまる子ちゃん』単行本第4巻133ページより)



私はほんとうに あまのじゃくなので、
やりたいことがやれない時期ほど、やりたい事がどんどん浮かんでくる。
そしていざ、はいご自由にやっていいですよ、と言われると、
アレ、私何したかったんだっけ?? となる。

 

食べたいスイーツ、着たい服、会いたいひと…、なんでもオッケーだ。
夢だっていいじゃない。

これは、今年の予定がだいぶ狂ってしまったひとだけではなく、
今、何か楽しみをガマンしないといけないことがあるひと、
とりあえずなんかワクワクしたいひと、
あらゆるひとにおすすめだ。


”WANT ToDo リスト”
を書くと、
「やりたかったのにやり損ねたこと」が「これからやりたいこと」に変わるので、なんだかワクワクしてくる。


さあ、次は何したい?

 

美術館好きの女子大生からみた「#美術館女子」

#美術館女子 ってなんぞや

美術館協議委員会と読売新聞オンラインがコラボし、女性ナビゲーターが美術館を紹介してゆくという連載が始まった。

www.yomiuri.co.jp


もともと美術館や博物館が好きで、自粛期間以前は毎週いくつもの館を巡っていた私は、twitterでこの名称が目に止まったので、サイトを見てみた。

「〜女子」という”行為の男性化”

「〜女子」という言葉は、”本来女性には似つかわしくない行為”をする女性、という意味で、そのジェンダー的違和感に着目する文脈で用いられる。


例えば、「リケジョ」「相撲女子など。
これは、「理系」や「相撲」が、女性的ではないというイメージが共有されているからこそ成立する言葉である。
「婦人警官」「女医」などと同類である。


少し前に流行った「歴女」については、「女性は文系」という固定観念のある社会において流布されたのは意外だった。ただ、よくテレビなどのインタビューを受けていた「歴女」が好むものは戦国武将などで、それもいわゆる「男性社会的なもの」として捉えられていたのだろう。あるいは、文理問わず「知識=男性的」という概念があるからかもしれない。


逆に、「〜男子」は、”女性らしい行為”に付く言葉だ。
「スイーツ男子」「育メン」など。


では、「美術館女子」という言葉が誕生するからには、
「美術館に行くこと」は、”男性らしい”行為なのだろうか?


「美術館女子」が、マーケティング上のカテゴライズおよびそのラベルなのだろうことはわかる。

ただ、皮肉にも、今まで中性的だった言葉(むしろ美術界の担い手の母数は女性が圧倒的に多い。出世しやすいのは男性であるが)に男性的イメージが付与されることで、ターゲットと思しき人々をかえって排斥しはしまいか。


敷居を低くしたい✖️拡散してほしい
=「美術自体に関心な知識もなさそう」な「若い女性」
  という装置


装置と「要素」化する美術館

現代は、オンライン上で「自分がこう見せたい/見られたい自分」を、さまざまな要素から編集していくことでアイデンティティを確立してゆく時代だ。


「美術館」が、「敷居が高い」というイメージから”知的”という記号として、(主にデジタル世界における)自己編集の「要素」とされていることを感じるときがある。



何の「要素」としての記号を使って、どんな「自己」に編集するかは、完全に個人の自由であり、それ自体に良いも悪いもない。



一方、ちょっぴり気になるのは、

実際、記号は、本質にないからこそ「こう見せたい」自己の編集において用いられるという場合が往往にしてあるし、

このキャンペーンでは、それを若い女性」に期待しているのが透けて見えていることである。”拡散力”の期待とともに。


個人的には、
美術とかムズカシーことはわからないけど、”知的”要素は欲しいな♡みたいな感じに思ってるだろ若い女は、と言われているような気がしてしまうのだ。

撮影の前は正直、ちょっと不安だった。
  私自身、これまでそんなに美術館に遊びに行ったこともな
ければ、絵画に詳しいわけでもない。
  「芸術って難しそうだし、自分に理解できるのかな」。そ
う思っていた。
  ただ、そんな気持ちは展示室に足を踏み入れた瞬間、吹き
飛んだ。
  草間彌生アンリ・マティス、宮島達男……。館内に展示
された世界的作家の作品はどれも圧倒的な迫力で私の心を揺り
動かした。
  知識がないとか、そんなことは全然、関係なし。見た瞬間
の「わっ!!」っていう感動。それが全てだった。


「芸術って敷居が高そう」
という意見は確かに存在する。その先入観を払拭するのは、あらゆる人のために存在する美術館の使命でもあると思う。


前提知識はなくてよいということには100%同感だし、当然のことではあるが、改めて言ってもらえたら「おっ、じゃあコレ聞いたこともないけど見に行ってみよっかナ」ってなっちゃう。少なくとも、私の場合。むしろ、知識がないからこそ行く。


ただ、

”自分に理解できるのかな”

からの

”知識がないとか、そんなことは全然、関係なし。見た瞬間の「わっ!!」っていう感動。それが全てだった。”

は、う〜ん。一応「若い女性」の端くれとしては、モヤモヤしてしまう。


この文面が一個人としての素朴な感想だとしても、


「美術館女子」と銘打っている以上、この”ナビゲーター”は、「若い女性」という要素が強調され、その代表的モデルとされる。

したがって、そこから”ナビゲーター”に付与されるイメージは、「若い女性」にも付与されることになる。


この”ナビゲーター”、およびそれに代表される女性たちに、
「知識がない(けどそんなことはどうでもいいの)」という”キャラ”が付与されていることが、物議を呼んでいる要因ではあるまいか。


* 
すこし本筋からは逸れるが、
「知識がない(けどどうでもいいの)」”キャラ”は、
館が来館者を突き放しているのでは???
とも思ってしまう。
美術館はあくまで教育施設としての役割をもつ。
私が現在履修している学芸員資格課程も、教育学部に設置されている。
ゆえに、この語り方には、
どことなく違和感を覚える。
もちろん、来館者は
「教育施設に学びにいく」というスタンスは言わずもがな不要だし、
展示物は、必ずしもその知識云々を提示するべきではないし、
提示しようがないものとも言える。
ただ、館側にこのように語られてしまうと、
その本質の自己否定になるのではないかと
感じられてしまう。



私を含め、いま若い女性は「インスタ映え」に夢中だ。だけ
ど、生まれ育った東京、しかもこんな身近な場所にこれほど贅
沢な“映えスポット”があるなんて、どれほどの女子が知って
いるだろう。
  作品はもちろん、光の取り入れ方に内装、どこを切り取っ
ても絵になる計算された美しさがここにはある。そして、新た
な自分を引き出してくれる魔力
も……。
  さて、私の作品はどんな形で仕上がるのか。このページを
開いたとき、そこにはきっと、ファンのみなさんもハッとする
新しい小栗有以がいるはずだ。
 足を運んで初めて分かる。
 アートって、すごい


いつのまにか、来館者が主役になっている…。

(このキャンペーンの主役はもともと小栗有以さんだが)


美術館の楽しみ方は人それぞれ、「映えスポット」と見なすのは自由だ。
写真を撮ることが目的の人は国内外問わずたくさんいる。
それに、「来館者こそ主役だ」と言う方もいるだろう。


ただ、私の個人的解釈としては、館側が

「主役は来館者のあなた、展示物や建物は背景ですよ、あなたを引き立てますよ」

と宣伝しているように感じられる。

これは、
先の例でもすこし触れたように、美術館がその価値の提示を自ら憚っているように感じるだけでなく、


この「主役は来館者のあなた」の”主役”とは、

「見られる」者としての”主役”

である。


”ナビゲーター”の彼女は、自撮りをしていない。むしろカメラを見つめている。これは、彼女を「見られる客体」化する。すなわち、そこには新たな「見る主体」という権力が発生する。


美術館においては、本来、「見られる」展示物は客体、「見る」来館者は主体である。しかし、来館者を「見られる」客体にしてしまっては、主体は誰になるか?展示物か?いやいや、展示物が「見る」主体っていうのは無理があるやん。


「見る」主体は間違いなく、”来館者”を「見る」他者である。


「見られる」存在である女性は、「見る」という権力に抵抗してきた歴史がある(まだ途上)。それなのに、公的存在である美術館が「見られる」女性を打ち出すのならば、逆行しているというか、やはり時代錯誤感が漂ってしまう。


しかも、その「見られる」女性は、
あくまで”自分から見せている”という構図になっており、それに
”美術がわからない、ただ自分を映やす道具にしか感じていない”というニュアンスが匂われる。


さいごに


長々と書いてしまいましたが、主に以下2点。

(1)「知識のない」という”キャラ”付けによる「若い女性」のカテゴライズ

(2) 「見せる(魅せる)」主体と思いきや、裏を返せば実は「見られる」客体としての女性の存在。ジェンダー史の逆行。


わたしが感じたのは、このあたりでしょうか。


性別を冠した言葉は、キャッチーである一方、炎上の可能性は否めない。
(むしろ炎上すら宣伝ともいえるが)

ただ、”炎上する”ということは、それほどジェンダーに敏感な人々が多くいて、実際に声に出し、それが社会に届いているということでもある。



そして、こういう問題を考えるときは、
「それが男性だったら、社会はどう反応するだろうか?」ということをも、常に考えるようにしたいと思う。




一刻も早く、「美術館女子」を含むあらゆる全ての方々が、安心して美術館に行ける日々を願ってやみません。😷


***

 

【続・在宅留学】中国の大学のLIVE授業を受けてみた

前回の記事で、疫情により半ば強制帰国となった留学生(私)について書いたのだが、オンラインでは未だ留学継続中だ。
今回はその中でもLIVE受講について書く。

※つい見出しの主語を大きくしてしまいましたが、超個人的な経験談です。あしからず。

在宅で継続中の留学はこのように進められている。(再掲)
 =============
  ①録画済み動画を視聴 ⏯
  ②事前課題を提出 📝
  ③LIVE受講 🖥
  ④事後課題を提出 📝
 =============

アプリは何を使うの?

基本的には ZOOM を使う。これは日本の多くの大学と同じようだ。
講義内で、スレスレを攻めるなあと思われる内容に触れても、今まで特にシステムに支障があったことはない。

画像2

最初の試行錯誤期間は 企业微信 なども使っていたが、音声の明瞭さや通信上の都合などから結局zoomでやりましょうということになった。

日本の大学のオンライン授業を受講している友人の話を聞くと、zoom等を使った講義は、ビデオオンの場合が多いように思う。
しかし私の場合、一度もビデオをオンにしたことがない。
個人的にはオフの方が集中できるので良い。

ただ、同学(クラスメイト)の顔がわからない。先生の顔も見たことがない(WeChatのトプ画だけ拝見した)。
せっかくの留学なのにやっぱりそれではザンネンだということになり、
”放課後”にHousepartyというアプリで同学たちとTV通話をした。通話機能だけではなく、レクのオプションがあって盛り上がる。

また、授業内で Kahoot! というアプリが使われたこともあった。これについては次の章を見ていただきたい。

ついでに言うと、授業ではないが友人と話すときは Google Meet を使うときもある。無料でも時間制限がないのが利点だ。
ちなみに彼らとは 谁是卧底^^(Undercoverを使うことも。言語練習にはもってこいのゲームアプリである。

その他にもいろいろ使っているのだがキリがないのでそろそろ次に。

受講の流れ

WeChat上にその講義に出席する学生と先生のグループチャットがあり、授業開始直前にzoomのリンクが貼られる。これは中国特有かもしれない。
一般的にはメールやHPなどでお知らせされると聞くが、それに比べて簡便だ。
チャット内では質問も随時可能で、とても便利だ。

教科書や資料はあらかじめPDFで配布されるので、各自PC上で書き込んだり、印刷したりして準備する。

基本的にはzoomの「画面共有」にて、先生のwordが黒板とされる。
また、オンライン上の資料を使う時は、それがそのままプロジェクターにもなる。
場合によって、先ほど述べたWeChatのグループチャットを併用することも。

先生陣はあの手この手でマンネリを打破してくれる。
例えば、先にも少し触れたが、前回の内容を復習する際に Kahoot!というアプリを使いクイズバトル形式で行ったこともあった。

そして、グループディスカッションをする際には、zoom内で小グループに分かれて行う。先生はいくつかのグループのルームを巡るかたちで出たり入ったりする。私が冷や汗をかきつつ(緊張) 意を決して話しているときには、なぜか先生はなかなか入ってこない。それどころか、沈黙を狙ってきているんじゃないかとすら思うくらい、ある意味タイミングが素晴らしい。
あえて何とかしてほしいところを挙げるとすれば、そのくらいだ。

授業後、例のWeChatのグループチャットで”黒板”が共有される。
書き漏らしをすることがないのでとても助かっている。

とは言っても、やはりデメリットもある。

 

雑音問題

”教室に入る”と、まずマイクとカメラがオフになっているかを確認する。
カメラがオフなので、寝転がりながら受講したり、途中退席したりなんかも自由といえば自由だ。
指名されたときに、すぐに戻って答えられるならば、だが。

最初のうちは全員マイクをオンにしており、他の学生の頷きなどの反応も聞こえたが、いかんせん雑音が多かった。
以後、先生の声のみ聞こえるよう、オフに。自分が発言するときのみ、マイクをオンにする。

先生は、学生の反応が殆どない中、話し続ける。
いわばPCに向かって ひとりリサイタル をするようなものである。
ジャイアンじゃあるまいし、非常にメンタルがやられそうだ。もはや聞いているこっちの心が痛む。

リアルの教室内では、隣の学生に気づいたことをすぐ言ってみたりできたが、オンラインとなると
【全員が】【同時に】【一つの話題を】【一方向的な流れの中で】
共有しなければならない。明らかに一点過集中である。

複数の人が発言すると何言ってんだかワケわからなくなるので、一人ずつ話す。【students⇄a teacher】ではなく、【studenta teacher】といったやりとりを繰り返してゆくしかない。

時差問題

多くの留学生は世界各地の郷里に帰っているようだが、授業はもちろん北京時間だ。

私の場合は時差が1時間しかなく特に不便はないのだが、ヨーロッパから受講している友人はいつもまだ眠そうだ。メキシコに住む友人は、夜中に受講するしかないとも言っていた。
私が夕暮れ時に”教室に入る”一方、画面越しに小鳥のさえずりがチュンチュン聞こえてくると、不思議な感覚になる。私が放課後すぐに夕食をとるとき、彼らはブランチの支度をする。
まるで谷川俊太郎さんの「朝のリレー」を彷彿とさせるような、、、

あらなんだかロマンチック、とつい詩的な気分になってしまったが、当の彼らにとっては一苦労だ。米国の留学先がオンライン受講を提供するが、今は日本におり時差が原因で諦めたという友人もいる。

オンラインの利点は「いつでもどこでも」だが、時間的制約を受けるとその前者が失われる。しかし、両者とも維持しようと、録画済み動画の視聴だけにしようものなら「留学って一体…」となるだろう。便利とはいえ、やはりひずみは否めない。

音声のみ問題

先ほど、私はカメラオフの方が集中できると述べたが、これはただ先生の ひとりリサイタルを覗くパターンの場合であって、自分が発言するとなるとやはり緊張する。そのせいで、正直あまり人の話は聞いていない。「音声が途切れて聞こえませんでした、もう一回言ってください」なんて言って、しょっちゅう電波のせいにしている。最近は「ちょっとよくわからない」と言ったら、「Wi-Fi調子悪い?」とフォローされるようにまでなった。ちなみに自宅Wi-Fiルーターの側で受講している。

一人だけマイクをオンにして話す。
「距離」という空間的概念のないオンライン上では、音声は、顔の見えない全員に、均等に聞こえている。
先生のリサイタルだったはずなのに、マイクを渡され、かわって自分が舞台のセンターに一人おどり出るのだ。あるいは、自分でマイクを奪いにいかなくてはならない。盛り上げてくれるバックダンサーなぞ居やしない。
私にとってその舞台はどうしたって清水で、マイクをオンにしたが最後、発言を以て飛び降り、撃沈することはもはや茶飯事だ。
想像力のムダ使いだと嘲笑されるだろうけれども、本当にこれくらい緊張する。実際の教室で壇上に上がる方がまだマシだ。もともと私は一人リサイタルに出るような人間ではないのだ。

ただ発言をするだけならば、視線を気にせずメモ等も見られるのでオンラインはむしろやりやすいのだが、いかんせんジェスチャーがないので、ディスカッションのハードルは上がるように感じる。メッセージでテキストを打つにも逐一やってたら鐘がなるし、字幕オンにしたって自分だけ見えても仕方がない。

音声のみのオンラインと違って、面と向かって中国語で話すとき、
私は動作がウルサイと言われる。
口元なり眉毛なり手なりが、勝手に動いているのである。
ぶっちぎり劣等生(自分の能力の問題)の私にとって、表情も含め、非言語メッセージはかなり重要であった。
人生には、無くなってみてようやく大切さを感じることがよくあるという。私にとってそれはまさにそのような存在だった。恋しい。ジェスチャーが恋しい。

ところで、最近ローラさんが新ファッションブランドを立ち上げ話題となっている。VOGUEのインタビューにこのような文があった。(https://www.vogue.co.jp/change/article/rola-studio-r330

日本に来たのが6歳くらいの時かな。その時の私はベンガル語しか話せなくて、コミュニケーションが全然できなくて。実は小学生での教育があんまり身についてない感覚があるの。ネガティブなことばっかりだったけど、今こうやって大人になって気づいたのは、逆に言葉が話せないからこそ、違う手段を使っていたんだなと思って。例えば手の動きや表情とか、心と心で伝えることを学んだのかもしれないと、なんとなく自分の中で思えるようになったけど。

まるで私もこのような壮絶な経験をしたかのように引用するのも失礼なのだが、彼女のこの感覚についてはわかった気がした。

今までの人生、ほとんど日本語を使って暮らしてきた私は、母語ではない環境で生きる人々の感覚は、机上のものでしかなかった。ただ、自分がそういった環境に置かれてみると、ようやく身を以て理解に近づけるように感じられる。

私は日本語を話す際もジェスチャーを使わないではないが、
日本語を話すときは主に感情のみを補助的に表すのに対して、
中国語を話すときは、多くの具体的な物事の説明をジェスチャーに頼る。
つまり後者は、「情」ではなく「理」の部分の表現における身体の役割が明らかに増大しているのである。

ちなみにこういった身体言語も、やはり個々人の文化的背景によってかなり特徴が異なり興味深かった。今度ネタ帳から引っぱり出してこよう。

実際そんなに変わらない?

「中国の〜」という見出しをつけておいて、なんだ日本の大学のオンライン授業とさして変わらないではないかという方もいらっしゃるかもしれない。
それならそれで、そういうもんだとご理解いただければ幸いである。
もし他に相違点や、受講にオススメのアプリ等があればぜひ教えていただきたい。
WeChatで同学にもシェアしてあげよう。

***

 

中国の大学のオンライン講義を受けてみた

駅前留学ならぬ在宅留学

 

疫情により、5月から日本の多くの大学でオンライン講義が始まった。

私は昨年から上海に留学していたが、
1月に日本に帰国し、
3月からオンラインにて講義を受けている。
6月で4ヶ月めに突入した。

 

私の大学では、オンラインにて留学を継続するか、留学を中断して復学するかは任意だった。多くの留学が強制的に中断される中、これはありがたいことだったと感じる。

一足先にオンライン講義を受けはじめて早や4ヶ月め、感じたことを記してみる。

オンライン講義ってどういうこと?

 

私の留学先大学では、本来2月下旬から春学期が開講予定だったが、2週間ずれこみ、3月頭から始まった。日本の多くの大学では1ヶ月半ほどずれたのを考えると、わずか数週間でスタートさせられたのは、今思えば驚きだ。決める→受け入れる→実行する、までのプロセスが早い。本当に早い。やるときゃやるのだ

 

大学指定の中国のアプリのアカウントに、自分の登録したコースが表示される。
余談だが、各論文や図書もそのアプリ上で無料で閲覧できる。個人的に「活在当下:365日静心课」という人生訓集が気に入っている。どうも中国語のテキストや書籍、コラムには人生訓が多いような。

 

基本的には、

  1. 録画済み動画を視聴
  2. 事前課題を提出📝
  3. LIVE受講🖥
  4. 事後課題を提出📝

の4本立てである。
それぞれのウエイトは先生毎に異なる。①と②は、ログイン等の時刻が秒単位で記録され(るらしい)、締め切りについては容赦がない(らしい)。

LIVE授業ってどうなの?

 

基本的にはZOOMを使う。「画面共有」により、先生のwordが黒板になる。そのwordは授業後にグループチャットでシェアされるので、板書の必要がなく、耳を傾けることに集中できる。

また、ZOOMとはいえ、私の出席している授業では顔出しナシ・音声のみなので、いろいろな面からみてとても楽だ。

 

ただ、ディスカッションはやはり白熱しづらい。物理的距離感が、少しばかりの沈黙の威力を大きくさせる。

LIVE授業やZOOM等についてはまた別の記事で詳しく書こうと思う。

オンライン化は課題地獄か?

 

巷では、オンライン化により、短縮授業の補習やテストの代わりとして大量のレポートに追われむせび泣くという大学生が多いらしい。
ただ、私の場合は、あまりそう感じない。

 

まず、運営の都合上か、授業時間も科目数も減ってしまったため(学費も大幅に減額された)事前・事後課題が多くなったとはいえ総負担にはそれほど変化はない。それに、引きこもりにつき学業に充てられる時間もより増えたので、むしろウエイトは軽くなったといえる。一つ一つ、よりじっくり取り組む余裕ができた。

 

ただ、やはり日本の大学の友人の話から察するに、通常授業数+課題増加となると、思わずむせび泣いてしまうというのも想像はできる。

オンライン化は 東○予備校化 か?

 

私は東○予備校にはいったことがないのでわからんが、あくまで肝は参加型LIVE講義である以上、単純にそれと化すとは言えないのではないかと思う。

(東○予備校の賛否についてはここでは何も言及していない)

大学も学生も手探り状態

 

前例がないものだから、やはりお互いに手探りでやるしかない。

 

私の留学先大学の場合、最初に2週間、トライアル期間が設けられた。
留学生は試しに受けてみて、もし気に入らなければ中断可能、というものだ。これは柔軟性があって悪くない。

 

そして、講義は、先生と学生がともに改善案を出しながらすすめられる。


「この資料はPDFで配布してほしい」
「このアプリを併用したらよいと思う」
「事前動画ではここが不十分だったから、LIVEでもう一度説明して」
「ZOOMに接続できない学生は、他の学生と電話してその音声をマイクに通させてもらって」

なんてことも。

 

先生も、あの手この手で工夫していたみたいだ。講義内容確認をゲームで行ったり、パワポがだんだんデコレーションされていったり。

今後はどうなる?

 

オンラインの有用性が広く実感された以上、おそらく疫情が収まってもなお、重宝されるだろう。しかし、やはり今のところオンラインならではの”距離感”は否めない。また、通信上の不都合も絶えない。それに、留学に関して言えば、教室外で見聞きしたものにこそ意義を見いだせると感じる。

 

【在宅留学】は、留学と名乗るのには無理がある。もちろん現地や他国からの留学生との交流はあり、【在宅自習】よりは良いとは思うが、やはりせめて【駅前】には行かないと、「留学」と名乗るだけの刺激は得られにくいのかもしれない。

 

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はてなブログとnote、どっち?

何のブログを始めるべきか

かねてより気になっていたブログをいざ始めんとした。

ここまでくるまでだいぶ長かった…まず、どのサービスを利用して始めるべきか、そこにつまづいてなかなか一歩踏み出せなかったのである。

サービスの種類が多すぎるのだ。

 

とりあえずメジャーどころとして挙がるのは、やはりはてなブログやnoteだろう。

前者は私の知り合いに利用者が多く、後者は最近流行りだということで、この2つに絞った。

 

とりあえず、どっちも。

 

しかし、いろいろと「比較してみた」系のサイトをみるものの、どちらが良いかピンと来なかった。だって、どっちもやってないんだもん。

 

ということで、どっちもやってみることにした。
今後、自分で試してみてどちらがよいか決めようと思う。

 

高校時代からの尊敬する友人が、以前「迷ったらなんでもやってみる!」と言っていた。知らずしらずのうちに、影響を受けているのかもしれない。

 

何でもやる友人

ちなみに彼女は本当になんでもやるのだ。
数年前、いわゆる完全アナログ人間だった彼女が、twitterを食わず嫌いする私に対して「やってみなきゃわからないじゃない」と言って、つぶやき始めていた。

実際、彼女は「やってみた」結果、性に合わないということでやめたという。

食わず嫌いをするでもなく、盲目的に没入するでもなかった。

 

この精神、私も大切にしよう。

 

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