美術館好きの女子大生からみた「#美術館女子」
#美術館女子 ってなんぞや
美術館協議委員会と読売新聞オンラインがコラボし、女性ナビゲーターが美術館を紹介してゆくという連載が始まった。
もともと美術館や博物館が好きで、自粛期間以前は毎週いくつもの館を巡っていた私は、twitterでこの名称が目に止まったので、サイトを見てみた。
「〜女子」という”行為の男性化”
「〜女子」という言葉は、”本来女性には似つかわしくない行為”をする女性、という意味で、そのジェンダー的違和感に着目する文脈で用いられる。
例えば、「リケジョ」「相撲女子」など。
これは、「理系」や「相撲」が、女性的ではないというイメージが共有されているからこそ成立する言葉である。
「婦人警官」「女医」などと同類である。
少し前に流行った「歴女」については、「女性は文系」という固定観念のある社会において流布されたのは意外だった。ただ、よくテレビなどのインタビューを受けていた「歴女」が好むものは戦国武将などで、それもいわゆる「男性社会的なもの」として捉えられていたのだろう。あるいは、文理問わず「知識=男性的」という概念があるからかもしれない。
逆に、「〜男子」は、”女性らしい行為”に付く言葉だ。
「スイーツ男子」「育メン」など。
では、「美術館女子」という言葉が誕生するからには、
「美術館に行くこと」は、”男性らしい”行為なのだろうか?
「美術館女子」が、マーケティング上のカテゴライズおよびそのラベルなのだろうことはわかる。
ただ、皮肉にも、今まで中性的だった言葉(むしろ美術界の担い手の母数は女性が圧倒的に多い。出世しやすいのは男性であるが)に男性的イメージが付与されることで、ターゲットと思しき人々をかえって排斥しはしまいか。
敷居を低くしたい✖️拡散してほしい
=「美術自体に関心な知識もなさそう」な「若い女性」
という装置
装置と「要素」化する美術館
現代は、オンライン上で「自分がこう見せたい/見られたい自分」を、さまざまな要素から編集していくことでアイデンティティを確立してゆく時代だ。
「美術館」が、「敷居が高い」というイメージから”知的”という記号として、(主にデジタル世界における)自己編集の「要素」とされていることを感じるときがある。
何の「要素」としての記号を使って、どんな「自己」に編集するかは、完全に個人の自由であり、それ自体に良いも悪いもない。
一方、ちょっぴり気になるのは、
実際、記号は、本質にないからこそ「こう見せたい」自己の編集において用いられるという場合が往往にしてあるし、
このキャンペーンでは、それを「若い女性」に期待しているのが透けて見えていることである。”拡散力”の期待とともに。
個人的には、
美術とかムズカシーことはわからないけど、”知的”要素は欲しいな♡みたいな感じに思ってるだろ若い女は、と言われているような気がしてしまうのだ。
撮影の前は正直、ちょっと不安だった。
私自身、これまでそんなに美術館に遊びに行ったこともな
ければ、絵画に詳しいわけでもない。
「芸術って難しそうだし、自分に理解できるのかな」。そ
う思っていた。
ただ、そんな気持ちは展示室に足を踏み入れた瞬間、吹き
飛んだ。
草間彌生、アンリ・マティス、宮島達男……。館内に展示
された世界的作家の作品はどれも圧倒的な迫力で私の心を揺り
動かした。
知識がないとか、そんなことは全然、関係なし。見た瞬間
の「わっ!!」っていう感動。それが全てだった。
「芸術って敷居が高そう」という意見は確かに存在する。その先入観を払拭するのは、あらゆる人のために存在する美術館の使命でもあると思う。
前提知識はなくてよいということには100%同感だし、当然のことではあるが、改めて言ってもらえたら「おっ、じゃあコレ聞いたこともないけど見に行ってみよっかナ」ってなっちゃう。少なくとも、私の場合。むしろ、知識がないからこそ行く。
ただ、
”自分に理解できるのかな”
からの
”知識がないとか、そんなことは全然、関係なし。見た瞬間の「わっ!!」っていう感動。それが全てだった。”
は、う〜ん。一応「若い女性」の端くれとしては、モヤモヤしてしまう。
この文面が一個人としての素朴な感想だとしても、
「美術館女子」と銘打っている以上、この”ナビゲーター”は、「若い女性」という要素が強調され、その代表的モデルとされる。
したがって、そこから”ナビゲーター”に付与されるイメージは、「若い女性」にも付与されることになる。
この”ナビゲーター”、およびそれに代表される女性たちに、
「知識がない(けどそんなことはどうでもいいの)」という”キャラ”が付与されていることが、物議を呼んでいる要因ではあるまいか。
*
すこし本筋からは逸れるが、
「知識がない(けどどうでもいいの)」”キャラ”は、
館が来館者を突き放しているのでは???
とも思ってしまう。
美術館はあくまで教育施設としての役割をもつ。
私が現在履修している学芸員資格課程も、教育学部に設置されている。
ゆえに、この語り方には、
どことなく違和感を覚える。
もちろん、来館者は
「教育施設に学びにいく」というスタンスは言わずもがな不要だし、
展示物は、必ずしもその知識云々を提示するべきではないし、
提示しようがないものとも言える。
ただ、館側にこのように語られてしまうと、
その本質の自己否定になるのではないかと
感じられてしまう。
*
私を含め、いま若い女性は「インスタ映え」に夢中だ。だけ
ど、生まれ育った東京、しかもこんな身近な場所にこれほど贅
沢な“映えスポット”があるなんて、どれほどの女子が知って
いるだろう。
作品はもちろん、光の取り入れ方に内装、どこを切り取っ
ても絵になる計算された美しさがここにはある。そして、新た
な自分を引き出してくれる魔力も……。
さて、私の作品はどんな形で仕上がるのか。このページを
開いたとき、そこにはきっと、ファンのみなさんもハッとする
新しい小栗有以がいるはずだ。
足を運んで初めて分かる。
アートって、すごい
いつのまにか、来館者が主役になっている…。
(このキャンペーンの主役はもともと小栗有以さんだが)
美術館の楽しみ方は人それぞれ、「映えスポット」と見なすのは自由だ。
写真を撮ることが目的の人は国内外問わずたくさんいる。
それに、「来館者こそ主役だ」と言う方もいるだろう。
ただ、私の個人的解釈としては、館側が
「主役は来館者のあなた、展示物や建物は背景ですよ、あなたを引き立てますよ」
と宣伝しているように感じられる。
これは、
先の例でもすこし触れたように、美術館がその価値の提示を自ら憚っているように感じるだけでなく、
この「主役は来館者のあなた」の”主役”とは、
「見られる」者としての”主役”
である。
”ナビゲーター”の彼女は、自撮りをしていない。むしろカメラを見つめている。これは、彼女を「見られる客体」化する。すなわち、そこには新たな「見る主体」という権力が発生する。
美術館においては、本来、「見られる」展示物は客体、「見る」来館者は主体である。しかし、来館者を「見られる」客体にしてしまっては、主体は誰になるか?展示物か?いやいや、展示物が「見る」主体っていうのは無理があるやん。
「見る」主体は間違いなく、”来館者”を「見る」他者である。
「見られる」存在である女性は、「見る」という権力に抵抗してきた歴史がある(まだ途上)。それなのに、公的存在である美術館が「見られる」女性を打ち出すのならば、逆行しているというか、やはり時代錯誤感が漂ってしまう。
しかも、その「見られる」女性は、
あくまで”自分から見せている”という構図になっており、それに
”美術がわからない、ただ自分を映やす道具にしか感じていない”というニュアンスが匂われる。
さいごに
長々と書いてしまいましたが、主に以下2点。
(1)「知識のない」という”キャラ”付けによる「若い女性」のカテゴライズ
(2) 「見せる(魅せる)」主体と思いきや、裏を返せば実は「見られる」客体としての女性の存在。ジェンダー史の逆行。
わたしが感じたのは、このあたりでしょうか。
性別を冠した言葉は、キャッチーである一方、炎上の可能性は否めない。
(むしろ炎上すら宣伝ともいえるが)
ただ、”炎上する”ということは、それほどジェンダーに敏感な人々が多くいて、実際に声に出し、それが社会に届いているということでもある。
そして、こういう問題を考えるときは、
「それが男性だったら、社会はどう反応するだろうか?」ということをも、常に考えるようにしたいと思う。
一刻も早く、「美術館女子」を含むあらゆる全ての方々が、安心して美術館に行ける日々を願ってやみません。😷
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